あなたには、りんごがどんな色に見えますか?
小学生の私が、よく考えていたこと。
私が見ている赤は、他の人にはどんな色に映ってるんだろう?って。
私にとっての赤は、誰かにとっての青かもしれない。
私じゃない誰かは、私が青だと感じている色を赤と表現し、
私が青と感じている色を赤と表現し、見ているのかもしれない。
その人にとっての赤は、どんな色なんだろう? って。
他の色も然り。
「赤」「青」という表現をして伝わっていくけれど。
目で見ている色は本当に同じなんだろうか?
もしも違う色を見ていたとしたら、どんな景色を見てるんだろうって。
小学生の頃は、そんなことをよく考えていました。
人は常に、「フィルタ・色めがね・思い込み・解釈」の中で生きていて、
自分なりのフィルタを通して、物事を認識し、判断しています。
私にとっての赤は、誰かにとっての青かもしれない。
同じように、
あなたにとっての嬉しいは、誰かにとっての悲しいかもしれないし、
誰かにとっての苦しいは、また別の誰かにとっては最高の学びかもしれない。
そんな想いをつなげていくと、「正解」「正しさ」「常識」「良い」「悪い」
そんな断定的な言葉が、いかに無力で無意味であるかと感じます。
解釈の仕方、捉え方ひとつで、可能性は無限に広がるもの。
そして何かのきっかけでこの解釈や捉え方が柔軟さを失うと、
人は行き詰まりを感じたり、生きづらさを感じたり、苦しさを覚えます。
苦しいときほど、敢えて力を抜いて、
「りんごは紫かもしれない」くらいの発想が、ちょうどいいかもしれません。